子どもを一緒に育てる女性カップル(山田麻那美撮影)

子どもを一緒に育てる女性カップル(山田麻那美撮影)

鼻と口は自分、耳は夫に似ていた。夫婦は身長29センチ、体重450グラムの我が子を祐希と命名し、翌日、火葬場で別れを告げた。青い服をまとった我が子の亡きがらは、一片の骨すら残らなかった。

神戸市の閑静な住宅街で、飯田美晴(仮名、42)は家族で1冊のノートを眺める。「あのさ、祐希くんって何年生?」。6歳の娘の問いに「本当なら、5年生だよ」と静かに応じる。日記「祐希の記録」には、命を巡る葛藤が詰まる。


中絶を決断した当時の日記(笹津敏暉撮影)
=一部画像処理しています

中絶を決断した当時の日記(笹津敏暉撮影)
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11年前、超音波検査後に医師が告げた。「脳に異常があるかもしれない」。過去の流産と出産事故を経て、今度こそのはずだった。「どうして私ばっかり」。たじろぐ美晴に、医師は「産みますか、それとも」と畳みかけた。中絶が認められる妊娠22週未満まで8日しかなかった。

別の専門家の意見を求めて胎児医療が専門の夫律子医師を訪ねると、厳しい現実が待っていた。「お座りや寝返り、話すことすら難しい」

「生かされる」のは親のエゴでは。子どもが欲しくて妊娠したのに。揺れに揺れたが、最後は夫医師の言葉に押された。「赤ちゃんは、どれだけ悩み抜いて決断したかを知っている。だから、恨んだりしない」。美晴は中絶を選んだ。

「不幸な子どもの生まれない運動」。前回東京五輪からまもない1960年代半ば以降、兵庫県が展開した取り組みだ。旧優生保護法下で優生手術を推進し、羊水検査費用の一部を公費負担までした。社会には優生思想が満ち満ちていた。

それから半世紀。96年の同法廃止後も出生前診断の向上はめざましい。裾野も広がり、母親の血中の胎児のDNAを調べる新型出生前診断は、2013年の開始から7万人以上が受けた。「優生思想への逆戻りだ」といった批判もある。

ただ、直面した多くの人は悩み、もがく。「申し訳ない。正しかったのかも分からない」。美晴は日記にそうつづった。社会全体が一方向を向いていた時代に比べ、価値観と選択肢が多様化した今、自分の道を自分の責任で選び取るのは、自由だがハードだ。

弁護士の鈴木若菜(仮名、34)は東京都内のマンションの一室で、夕食をほお張る大輝(同、6)をいとおしそうに見つめた。大輝は、パートナーの真里江(同、31)の実子。3人は2年前から生活を共にする。

若菜と真里江は戸籍上は女性だ。同性の法律婚が認められていない日本では、法的には別世帯になる。それでも「みんながありのままでいられるのが家族」と、この形を選んだ。

ジェンダー史に詳しい三橋順子氏は60年代の日本を「同性愛者は家族や社会から排除されかねず、公にできる環境ではなかった」と分析する。

その後、性的少数者を取り巻く環境は大きく変わった。世界保健機関(WHO)は93年、「同性愛は治療の対象にならない」と宣言。15年には米連邦最高裁が「同性婚を認めないのは違憲」とし、議論は一気に熱を帯びた。日本でも同11月には渋谷、世田谷両区がパートナーシップ証明書を発行、同様の取り組みは各地に広がりつつある。

大輝の保育園では、職員も保護者も「ママが2人」と自然に受け入れてくれる。男性の「パパ友」が子育て相談をしてきてくれたのも、若菜にはうれしかった。

ただ、手放しで受け入れられない人もなお多い。若菜の両親は関係を認めていない。家族のことを話すと「恥ずかしいからやめなさい」。真里江の父は、実家で線香をあげようとした若菜を大輝の前で怒鳴りつけた。

時代とともに揺らぎ、ひとところにとどまらない家族のかたち。手探りの選択はこれからも続く。

(嶋崎雄太氏)