只今59歳、瑚心すくいになったのは52歳でした

わたくしがトランスジェンダーであることを初めてカミングアウトしたのは、現在のパートナー(女性)です。
前の妻と離婚して数年が経ったある日居酒屋です。

僕、実は性同一性障がいなんだ。
生まれた頃から女の子になりたかったんだ。

彼女はビックリすることさえできなかったらしく
「ふーん」と返事を返してくれました。
それと別れてくれ、なんてこれぽっちも思っていません。

離婚した一文無しのわたくしをずっと献身的に支え続けてくれたからです。
「いいんかな・・・?」

「仕方ないんじゃない、前から女性ものの服があったり、浮気しているような感じでもないし、おかしいな?とは思ってた。」

其の後、何の話をしたかはあまり覚えていません。
とにかく一番最初にカミングアウトしたのが47歳位だと思います。

職を転々として、その時は遠方で車のエンジンを作る工場で働いていたので
2週間に1回、社宅と自宅の往復でした。

女性ホルモン

ある日、ネットでジェンダークリニックがあるのを知って尋ね、そこで「女性ホルモン」注射を初めて打ってもらいました。とうとう念願の女性への一歩が始まったのです。ずっとずっと子どものころからの念願でした。

其のまま仕事で帰省する2週間に1度往復時に注射。それから11年は過ぎました。その間、出先で女性ものの服を通販で揃えては、仕事先が田舎だったので、服を着て夜中に散歩するのが日課でした。
その内、「こんな隠れてコソコソしてても仕方ないよな」って思い始め、

正直に彼女にトランスジェンダーをカミングアウトしたのです。
「女性ホルモン」注射をすでに打っていることもいいつつ、将来は女性になることを願っているということも。

それでもわたくしたちは別れることもなく現在も続いています。

苦難の道

工場で働いている時から髪型は結構自由だったので長髪にしていきました。
それで、以前いきつけだった床屋の若い亭主に「ストレートパーマ」にしてもらい女性としてワンランクアップしました。

しかしある時、工場をやめて地元に戻り職を探すことにしたのですが、「トランスジェンダー」なぞ言葉すら知らず「性同一性障がい」「長髪」、この2つの条件は大きな壁となってわたくしを受け入れてくれません。あるところでは従業員を全員呼んで、そこの社長が「みんなどう思う。性同一なんとかだって、できると思う?」とさらし者になったことも。50社位2か月かかって就職活動しましたが無理でした。

瞬く間に貯金は無くなり、とうとう一大決心して髪の毛を切ったのです。その一週間後に就職できました。「結局、後戻りか・・・。」

自殺大国日本

年は過ぎ49歳、ある公共施設に転職し気持ちを切り替え過去を忘れるためにも一生懸命仕事をしました。結果それが今のわたくしを開花させることになったのです。平成10年に世間はバブルがはじけた後で多くの自殺者が出ました。日本は3万人以上の先進国では突出した数字の自殺者になったのです。

私は転職後、国が「自殺・うつ病対策プロジェクト」を立ち上げ、そのことを知り、わたくしも以前の仕事で「うつ病」になって通院していた理由もあり、当時うつ病(精神障がい者)は知的障がい者とともに偏見の目で見られていたので、施設で「正しいうつ病への理解」のための講演を3年間ずっと続けてシリーズ化して市民の理解を求めることをしました。毎回20~30人の方がお見えで市民の関心の高さが伺えました。

職場の虐め

わたくしは施設の副館長になり、文部科学省の国家資格である「社会教育主事」講習にも参加させて頂きました。遠方だったので会社からは出張扱いで1か月半現場を離れました。いい学びが出来ました。この数年間で人権擁護と地方創生の大切さをトコトン実践できました。

しかし、施設へ戻ると周囲の職員からは「まともな引継ぎが出来てなかった!無責任だ!」と毎日口撃が続きます。毎晩帰宅し講習の卒業論文を毎晩夜中まで書いていたのですが、何故かしら、文章が「すみません、自分がわるかったのです。」とか「許してください。」とか、毎晩遺書をどうしても書いてしまうのです。涙が止まりません。そんな毎日が続きます。

オーバードーズ(薬物大量服用自殺)

女性への道をかすかに思い、職場でカミングアウトしてでも生きていけないだろうか、と思ったのですが、こんな世の中じゃ生きていても仕方ない、と思うようになり、ついに自殺を決心しました。

ところがタイミングが悪く、年末でしたが、父親から電話があり「年明けに前立腺癌の手術をするからお母さんを頼む」といわれ、死ぬタイミングを持っていかれました。

年が明け、母親も体調が悪かった中、父親の手術があり、無事終わりました。わたくしは最後の親孝行だと思って一晩付き添い見舞いもいきました。

実は父親から電話がある前に自殺を決意していたので、性同一性障がいのことを手紙にして父親宛に送っていたのです。

両親からはそれについての話はなかったです。ショックだったろうと思います。時代が時代ですから。会話のしようがなかったと思います。

父親が無事退院し家は落ち着きました。しかし施設の虐めはエスカレートしていく一方なので、やはり自殺するしかない、どうせカミングアウトしても生きる場所などない。そう思い、遺書を書き精神病院の薬を一遍に飲み込みました。200錠はあったと思います。

入院と転勤、再出発

ベットで目が覚めました。向かいのベットのおばあちゃんがカーテンで暗い中すごしているので、「いい天気だよ、カーテン開けるよ」「ありがとう」。そしてまた眠りにつきました。それから何時間たったでしょうか、段々と思い出しました。「自分は死んだはずじゃなかったのか」。

彼女です。職場が違うのに休みの日を知っていて仕事の帰りに自宅で倒れているわたくしを救急搬送の連絡と、施設や家族への連絡をしていたのです。かすかに覚えているのが一晩目は意識がなかったのですが、2晩目の病院を通院している病院に搬送されたとき、車いすに引かれ目におぼろげに映ったのが涙目の母親をみました。

それから1か月半入院は続きます。その間色々と考えました。どうせ死んでいたんだ。「性同一性障がいとしてまともに生きよう」と考えました。
しかし施設の上司が見舞いに来て「何てことしてくれたんや」と言い、
父親が見舞いに来て「なんでもっと我慢できんかったんだ」と言い、
やっぱり死んだほうが良かったとしみじみ思いました。

ある日支社から上司が見舞いに来てくれました。
わたくしは思い切って性同一性障がい(トランスジェンダー)をカミングアウトし、女性として仕事ができるようお願いしました。上司は「よく言ってくれた。考えていることがあるから、また相談するよ」、転勤です。別の市に新しく施設を管理することになり、全員新人職員と一緒に仕事をすることになったのです。

わたくしは、冒頭の挨拶で「○○です。性同一性障がいという病気で女性として働くことになります。」言ってしまいました。52歳の時です。社会に向けてカミングアウトしたのです。
とはいうもののラフな格好で仕事はできるのですが、いきなり人前に女性としての姿を見せる勇気はありませんでした。

女性職員の後押し

思い切って自宅から職場にいくのはスカートを履き、化粧をし通勤しました。でも電車の中では隠れるようにしていました。なんせ50過ぎのおやじだからな、なんて思ってしまいます。

しかし職場では化粧はそのまま制服がないのでチノパンはいて女性用のシャツで仕事をしていました。その内、施設を利用する方から、「なんであの人男やのに化粧してるの」と言われることが続くと、女性職員が「彼女は心が女性なんです」とフォローの言葉がでました。

「そうよ中途半端よ」。スカート履いて仕事したらいいんじゃない。と女性職員たちがいいます。わたくしはパソコンの先生を担当していましたので、デビューの日にスカートを履き教壇に上がりました。

「○○と申します。性同一性障がいという病気ですが頑張ります。」
生徒さんたちは笑顔で拍手です。なんてことでしょう。わたくしはパソコンの授業の合間に「うつ病」や「不登校」など、生きづらさを感じている人の存在について時々話したことがあります。授業が終わるとパソコンのそうだんではなく、そっちの相談が増えました。人生が変わりました。それからです。地域のボランティアにも参加。どなたとも(いいようがないんでしょうけど)名刺交換し集まりに参加、区長と飲みに行ったり、わからないものです。

新しい人生

ある日パソコンの生徒さんたちとワードの素材を近所の公園に撮影に行くことにしていました。ところが皆さんわたくしに抱き着いてきて、一緒に写真撮ってください、の連続。戸惑いながらも生徒さんたちだけの宴会に呼ばれたり、私は今まで何をしていたのか?と思いつつ一層熱心にパソコン指導や施設の仕事に従事しました。

それから1年後、人生やり残したことがあります。私は仕事をしながら行政の人権擁護士の講習に通い認定を受け、自分の法人を立ち上げました。

「うつ病」のことと「地球環境問題」に取り組むためです。それからさらに1年後の2015年国連「持続可能な開発目標」SDGs2030アジェンダが世界で採択され、その道を歩むこととなります。女性としてです。

最後に

最後に私を後押ししてくれた上司と女性職員とパソコンの生徒さんに感謝しています。今女性として生きているのは皆さんのおかげです。
わたくしはヤマハ音楽教室時代に女性の社会参加を積極的に推進していました。今、その時代が30年の時を経て世界とリンクして動いているのです。不思議な人生です。

(瑚心すくい)